納得したくないことは、そっかーでいい。

フツウってすごいことだ。

 


寝て、起きて、いつものこたつ、いつもの茶碗で、予約炊飯していたごはんを食べる。それってすごいことだ。

お腹空いて、冷蔵庫見て、カレー作って、お風呂の後に歯磨いて、いつもの布団で寝る。それって、本当にすごいことだ。

 


私は最近毎日、フツウが楽しくて過ごしている。でもその生活は一見、それはなにも特別じゃなくて、私を表す特異的で個性的な一面を表せられてはいなくって、自己紹介が正直とても難しい。「○○をしています」には、いつも特別なものが入る。入るべきだと、いつの間にか感じている。転校生に向けられる良か不かの選別の目(必ずあるわけではないだろう)が、私の中にあって、それは私に向けられていて、だいたい評定 不 を頂いて帰ることになっている。私の中で。それに今日、気が付いた。

 


人と話した後、妙に疲れている時があった。最近ではだいぶ軽減していると思っている。帰宅後、その日の会話を思い出しては、悪い点はなかったか、反省を繰り返して眠る。あれはいつもこいつと話していたんだな、と分かった。ずっと一緒に居すぎて、いない時を覚えていない、無意識の住人。

 


採点されるのきついよ、と話すと、いい点取らないと生き残っていけないんだもん、と言われる。そうだったね。いい点数取らないと、ダメだったもんね。

 


驚くことに、進学も卒業も入学も退学も、どの学もない年が16年ぶりになる。なんでこんなに人の目とか、点数とかばかりどうしても咄嗟に気にしてしまうんだろうとドライブ中によく考えてしまうけれど、仕方のない話である。30代の友達が話す過去10年間は、私たち20代にとっての10代の記憶だ。今は今のルールがある。いないもの、いない人に従わないの!と言いましても、外を見ても、内を見ても、一筋縄ではいかないのが本音の本音。

 


すこしずつ、許してあげたり、また許せなくなったりしながら、最後まで生きていたらいいのかな、と思う。完璧になったつもりで書いた文章を、いつの間にか忘れていって、だんだん重りにだけなっていく。もうあんまり、そんなことはしたくないから、やっぱり自分にさえも、そっかーってだけいっていたい。

 


理屈を並べても、納得したくないことは五万とある。自分が嫌いやねん、大失敗したねん、もう無理や死にたい。そうなっても、そっかー。そう思いたいときは、そう思っとこう。

 


フツウがいくら大好きでも、恥ずかしいって思う自分はいるし、誇りたい時もあるし、でもクズ野郎だって思うときもある。もうそれでいい。そっかー、そう思ったんだねえ。そっかー。

 


自分さえも、他人事。思いはどうしたって、忘れたとこからやってくる。思い直さなくても、考え直さなくても。忘れていた過去の来客を見つけたら、そっかーを持って会いに行こう。